1作目は世界的センセーショナルを巻き起こしました。
2作目は賛否が分かれるところです。
個人的にはアーサーという人物が、いかにジョーカーとなっていったのか。
そしてジョーカーとは人々の心の中にある「偶像」であり、偶像であるアーサーという人物に
勝手に、社会に敵対する存在である(ジョーカーという名の)ヒーローを押し付けていた。
後半には、アーサーは(社会から期待されている)ジョーカーを演じることに疲れた、と本音を漏らしてしまう。
ヒロインであるリーは、ヒーローであるジョーカーに対して恋愛感情を抱いたのであって、人間としてのアーサーには興味がない。
アーサーは偶像であるジョーカーではなく、リーには人間としてのアーサー自身に興味を持ち、恋をして欲しかった。
対するリーは社会に敵対するヒーローとしてのジョーカーを求めている人々の、代表のような存在であり、
アーサーがジョーカーであり続ける限りは、その存在に夢を見続けるのではなかったか。
けれども、今回の映画の副題、「フォリ・ア・ドゥ」には二人狂いの意味がある。
二人の間にある恋愛感情も、ともに過ごす時間も、どこまでが本当でどこまでが妄想なのか、実のところ
それさえも曖昧で分からない。
偶像として生まれた「ジョーカー」は、社会がもたらした「誇大妄想」なのではないか。
一作目に熱狂した私たちもまた、二人狂いの妄想の中に居て、そして我々をも巻き込む
ジョーカーという偶像あるいは妄想の終焉に絶望感を抱き、我々が狂信者の手を借りて、
ジョーカーを演じたアーサーを、消し去ろうとしたのではないか。
賛否両論が出ているのは、ジョーカーの終焉を招いているのは観客である私達自身なのだと、
気づいていないせいではないだろうか。