この映画でのサイダーハウスとは、リンゴのサイダーを作るために労働者が寝泊まりしている納屋を意味しています。
物語の終盤で、サイダーハウスルールが書かれている紙を、「ルールを作るのは俺たちなんだ!そんなもの、燃やしちまえ!」と言われ、主人公は燃やしてしまいます。
孤児院での暮らしから外の世界へ飛び出し、様々な経験を重ねる中で、自分なりのサイダーハウスルールを作っていく、そのための通過儀礼、青年の成長物語なのだと感じました。
個人的には、医師役のマイケル・ケインの存在が映画の骨子を作っているように感じます。
扱っている題材は非常に重く、堕胎、孤児、エーテル中毒、浮気、近親相姦、など。
医師でありながらエーテル中毒者でもあり、さらに望まない妊娠をした女性たちを助けるために、
違法な堕胎手術を行い、そして生まれた子供たちを王子たち、と呼ぶ。
主人公に対しては「人の役に立つ人間になりなさい」と諭す医師。
孤児院育ちの主人公はそんな医師に目をかけられ、後継を望まれますが、自分の将来に疑問を持ち、
反発して今の場所から旅立ちます。
堕胎手術に訪れたカップルと意気投合し、未知の海や、ロブスターを見せてもらったり、リンゴ園の仕事も
紹介してもらいます。
孤児院の外の世界を知らなかった主人公は、リンゴ園の仕事にも楽しんで取り組み、恋愛も知ります。
けれども、リンゴ園の責任者である男が、娘を妊娠させてしまったことで、
自分は医師だ、という元の仕事を明かし、娘の堕胎手術を行います。その後その男は娘に腹を刺されて死亡。
その頃主人公宛に、件の医師が亡くなったという知らせが届き、主人公は孤児院に戻ることを決意します。
これだけのダークな要素を持った作品が、視聴後に穏やかな気持ちになるのは何故なのでしょう。
1つには、外の世界を知らなかった主人公から見たものは、とても新鮮で、また世間知らずゆえに、
先入観を持って物事を見ていないことで、ありのままに周りのものを受け入れる包容力に満ちていること。
そしてまた育ての親である医師が、清濁合わせ飲み、善と悪が同居し、薬物中毒者でありながらも
常に妊婦とその子供たちを助け、受け入れる。
自分は聖人君子などではない、ただの弱い人間なのだ。けれど自分なりに、人の役に立っているのだ。
ということを主人公に身を持って示している。
さらに物語の最後には、自分の経歴で偽造した医師免許状と、兵役に取られないための別人のレントゲン
が残されています。
例えるなら、父性というものは、綺麗事ばかりではない、この世の清濁を合わせ飲み、そしてまた自身も強かに生き、
けれども弱い自分も受け入れて、包容力でありのままの周囲や人々をも受け入れ、守っていく。
そういうものなのだと、主人公に教えている気がするのです。
人生とはそういうものなのだと、押し付けるのではなく、主人公が目指す、自身とは違った父性を持った医師、
自身よりも強さと愛を知る、そうした父性を持った医師になるのではないかと思わせるのです。
主人公を中心に物事をありのままに見ていくと、全ての出来事が彼を成長させるため、また医師という仕事を
続けさせるための貴重な経験、時間だったのだと思えるのです。
暗さや残酷さまでも全てありのままに受け入れることが出来る、そんな後継を医師は育てられたのだと、
そして確かにバトンは渡されたのだと、そう思われるから、どこか爽やかさすら感じる後味の映画なのでは
ないかと思いました。
主人公は自分なりのサイダーハウスルールを練り上げ、作り上げていくのでしょう。